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2007年1月 7日

ドラえもんのいない世界で

マンネリ化した正月特番の番組表を眺めていたら、中日新聞の『いじめと生きる【第1部ドラえもんのいない世界で】』という特集記事が目に止まった。元旦から5日間連載され、マンガ『ドラえもん』から日本社会といじめの特徴を解釈するのもでなかなかおもしろかった。あまり詳しく書かないけどなんとなく印象に残ったのでメモってみた。

第1日、四層構造
今日、いじめは四層構造によって進行すると解釈されている。これをドラえもんに当てはめると、加害者=ジァイアン、被害者=のび太、観客=スネ夫、傍観者=しずかちゃん、ぴったりいじめの構造に当てはまる。作者の藤子によるとえがきたかったのは『ありふれた町のありふれた日常』でありふつうの現実、そこには日常的に避けがたくいじめは存在するのだ。政府はいじめ撲滅をかかげているが、『どくさいスイッチ』でのび太はいじめる相手を片っ端から消していき最後に一人ぼっちになってしまう、そして亡きながら叫ぶのだ「ジャイアンでもいいからでてきてー!」。

第2日、流される しずかちゃんも見ているだけ
囃し立てるスネ夫、見てみぬふりをするしずかちゃん、いじめは観客、傍観者によって成立してる。スネ夫はいつも強いものに流され、しずかちゃんにおいても仲裁者になることはない。現実において、いじめの起こるクラスと起こらないクラスでは「加担」する生徒の割合が同じでも、「傍観」する生徒の割合はいじめの起こるクラスは2〜3倍、「仲裁」は逆に起きないクラスが2倍近くなるそうだ。

第3日、親と子 『立派」じゃない、だからすがれる
たすけを求めて泣きつくのは『ママぁー』でもなく「しずかちゃん」でもなくドラえもん、聡明で優等生のドラミちゃんにもすがれないのだ。現実社会でいじめや悩みを親や先生に打ち明けるケースは少ない。本当に悩みを相談できる相手は未来の落ちこぼれであるドラえもんのような存在なのかも。

第4日、空間の違い 町内を飛び出すとジャイアンは変身する
ジャイアンとのびたの間には明らかに暴力による上下が存在する。しかしいつもの空き地でいつもの顔ぶれという短編での『閉鎖的』空間ではジャイアンはいじめっ子なのに、広い舞台で新しい仲間や巨大な敵が入り乱れる長編での『開放的』空間ではそうではない、ジャイアンは男気あふれるたのもしい仲間に変身するのだ。現実社会においていじめが成立しするのは『閉鎖的』なクラスや学校であり、もっと開かれた世界に目を向ければ状況は変わるかもしれない。

第5日、のび太的 「よおし!がんばるぞ、やれる範囲で」
ドラえもん依存に非難をあびるのび太、ドラえもんがいなければ何もできないかに見える。未来で成長してもダメな自分に出会うのび太、そして思い立つ、「よおし!がんばるぞ」、「しかし、毎日がんばるのは大変だから、一日おきで。。。」、「いや二日おきで。。。」、「いや、やれる範囲でがんばるぞ!」。

ここから続き

投稿者 hatch : 2007年1月 7日 00:11

コメント

ああ,これ実家に帰ったときにちょっと読みました。2日までしかいなかったので初日しか読んでいないけど,そういうことだったのね。俺はこの話題になるといつも村上春樹の「沈黙」という短編小説を思い出します。最もタチが悪いのは加害者ではなくて,その加害者の話を鵜呑みにして流されてしまう傍観者なんだっていうテーマなんですがなかなか面白いです。時間があったら読んでみてくださいな。

投稿者 とーる : 2007年1月 7日 14:45

ありがとう読んでみるよ、っていうか貸して今度。
ぼくがこれを読んで思ったのは、いじめの構造がどれだけ日本風土に習慣化しているかということかな。
この構造は『ドラえもん』の根幹をなし、ストーリーの起点になってる。傍観者がいじめの助長するという考えは比較的最近知られるようになったけど、40年近く誕生したマンガがすでにそれを日常光景として描き、それはほとんど変化なく今日まで広く親しまれているという事実。いじめはずっと以前から日常的に存在しこれからも続くものなんだろうね。

投稿者 ハチ : 2007年1月 9日 13:02

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