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2006年7月24日

もう一週間か〜

なんだかんだでブログの面倒が見れなくて更新が遅れ気味なんけど、先週末の横浜開港記念花火のワンシーン。山手に住んでいる大学時代の友人宅におじゃまして、庭先でバーベキューをしながら見物しました。やっぱり花火はいいね〜、ベランダから見られるなんてうらやましいかぎりです。

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Posted by hatch : 00:00 | コメント (1)

2006年7月21日

サイトの引越し

このブログは友人のhashiさんのサーバーに居候して運営していますが、サーバーのトラブルによりブログの更新がうまくできない状態が続いてましたが、ようやく新しいサーバーへの引越しが完了し公開できるようになりました。これを機会にブログデザインのリニューアルなどと考えていますが、時間がなくてデフォルトテンプレートのまま、レイアウトも破綻してます。とりあえず、mixiのリンクだけ直して、デザインの変更はおいおいやっていこうと思ってますのでこれからもよろしく。

Posted by hatch : 13:20 | コメント (1)

2006年7月16日

パエリア

今週はなんだかハモン・イベリコが無性に食べたくなったので、木曜目黒にあるスペインレストラン『カサ・デ・フジモリ』に友人たちと行ってみた。想像以上に雰囲気もよくうまかったです、なんとかっていう地方の最高級のイベリコハムとアロス・ネグロというイカスミの炊き込みパエリアにうなりました。そんな気分のまま、ストックしておいた現地調達の材料と、妹オススメの新レシピをもとに自宅でパエリアを作ってみた。これまで何度も作ったことあるけど、「本場のパエリアの雰囲気に近い」というだけあってずいぶん調理方方法が違う、たしかにこっちほうがうまくなるにちがいない。しかし今回はいまいち要領が掴めず本場の雰囲気にはほど遠い感じになってしまった、次回もう一度トライしてみます。

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Posted by hatch : 01:21 | コメント (1)

2006年7月12日

ああ、おそろしい。

こんなん見ちゃうとビビるねマジで。航空機エンジンで使われるタービン・ブレードの劣化・破損によるエンジン停止トラブルはある意味想定内の事故だそうだ、しかし実際乗っててエンジンが爆炎とともにスタックしたらもう二度と飛行機乗れなくなっちゃうよ。それにしてもタービン・ブレードとは手のひらにのるほど小さなものだが特殊な超合金できており、一枚あたり70万円、航空機一台あたりの全交換費用が約1億円もするそうだ、それをアメリカのイギリスのわずかな企業が独占的に生産しているところがなんだかまた恐ろしい。

Posted by hatch : 01:29 | コメント (5)

2006年7月 7日

ON

そろそろ普通のプログに戻そうと思うので最近聞いたCDなど紹介します。こりずにまた買ってしまったブンブンサテライツ。たしかに原点復帰して独特の疾走感は健在なんだけど、かつての感激はもはや薄いな〜。PS2版リッジーレーサー5でゲーム中にかかる「FOGBOUND」が強烈カッコよかったのにな〜。プライマルスクリームもなんだかな〜ちょっと想像してたのと違がかった。とある飯やのバックでかかっていたのを偶然発見、思わず買ってしまった。何気にこれが一番好きかも、『怪奇大作戦』のウクレレバージョンは圧巻でした。

B000EWBCME Riot City Blues ウクレレ ウルトラマン

Posted by hatch : 19:27 | コメント (2)

2006年7月 4日

母を送る

ブログの更新もずいぶんご無沙汰していたけれど、ぼくにとっては大きな出来事があった。

6月23日の金曜日14時45分、がんと一年六ヶ月間闘ってきた母が逝った。

握っていた手に手ごたえはなく、マスクから供給される大量の酸素のわずかに肩の動くとても浅い呼吸をゆっくりと続けていた。一瞬大きな呼吸をしたように感じた後、心電図が0のまま動かなくなった、おだやかな顔した母の眼元に涙なのか汗なのかうっすら浮かんでいるように見えた。

一年六ヶ月前大腸がんと診断、即切除手術がおこなわれ無事終了したけれど、がんは大腸壁からリンパ節までたっしておりステージ4に分類される手術後五年間の生存率が25%以下という”すでに手遅れ”状態だった。

それでも経過は順調で日に日に回復する姿を見て、きっと大丈夫、完治はしなくても長生きしてくれてだろうと勝手になんの根拠もない漠然とした判断を続けてきた、少なくとも5月末日の再入院まではほとんど疑いもなくそう思いこんでいた。4月の入院でお見舞いに訪れたとき8Fの病室の窓からみえる風景を描いた水彩スケッチを見せてくれた、病院は退屈で仕方ないと愚痴っていたほどだ。

しかし実際は腸癒着による腸閉塞とその手術、抗がん剤投与による副作用、肺に水が溜まりがんの肺転移と思われる症状が現れはじめ状況は悪くなる一方だった。先週の月曜日には自力での呼吸が困難な状態となり、食事もできず急激に体力が衰えた。それでも水曜には飲み物を飲んだり会話をしたり容態は安定してきたので、妹と交代でぼくは一旦横浜の自宅に戻った。ところが金曜の明け方、W杯ブラジルー日本戦を見終えてベットに横になって間もなく、電話がなった。名古屋にかけつけたときには意識もなく呼びかけにも反応しない状態だった。

思い返してみると「・・・たられば」の繰り返しになってしまう、もしもっと早くがんに気づいてきれば、もっと早くがん専門の医療機関の診察をうけていたら、もっと腸閉塞の予防を意識していれば、もっともっとがんについて知識があれば、、、、きりがない。

葬儀の数日間は一人でいると思い出や記憶がつぎつぎとフラッシュバックしてやりきれない気持ちがこみげてくる。眠っているように棺におさめられた母が火葬される瞬間、はっきりとこれが永遠の別れなんだと強く意識させられた、形さえもう残らないのだと。

先週の一週間、故郷の名古屋で家族と過ごした。がんとはいえほんのわずか一ヶ月前までは普段どおり生活していたこの家は母の生活スタイルそのものなんだとあらためて気づく、予定が書き込まれたカレンダー、よく聞いていたクラシックのCDとCDラジオ、電話で脇に置かれた部屋にまったく馴染まないもらいもののアンティークスタンド、台所から母がひょっこり顔だしそうなくらいいつもと変わらぬ光景だ。

かつては家族6人で住んでいたこの家も今後は父と妹の二人暮らし、何十年と蓄積された生活用品が今はもう使われなくった元ぼくの部屋に無造作に積み上げられている。ぼくら兄妹はそれらを少しずつ整理することにして、ホコリまみれの段ボールを開いていくと、なんでこんものいつまでも捨てず残しているんだろう疑いたくなるのもばかりだった。しかしその一つ一つを眺めていると、すっかり忘れていた過去の記憶がよみがえってくる。お正月によく遊んでいたりっぱな押絵羽子板、スクール水着と愛用していた浮き輪、水彩の写生や全部平仮名で書かれた将来の夢の作文、100点とった理科のテストまで残っていた。

ぼくでさえ忘れかけたおぼろげな在りし日の思い出を大切に保管してくれたお母さん、ぼく以上にぼくことを知っていてくれたお母さん、ほんとうにほんとうにありがとう。

Posted by hatch : 22:34 | コメント (8)